中学2年生からの2年間、大石順教尼から教えていただいた生きる上で大切な事を今度は南さんの言葉として、その生き方から
沢山の人を勇気づけてくれています。そんな言葉をいろいろな方の想いとともにまとめてみました。
禍福一如(かふくいちにょ)
「両腕がないから不幸なのではない
ものごとは心の持ち方ひとつで幸せにも不幸にもなるんだよ」
私たちに起こる禍は、両腕を失うという事に比べればそれは小さな事ではないだろうか...それでも心が折れそうな時は、お二人のことを想いうかべながら、「禍福一如」と自分に言い聞かせたい。
出来ないとしないはちがう
何もできないと思っていた南少年が、片道3時間半をかけて堺から京都まで電車やバスに乗り継いで一人で通うことができた...口で絵が描けた...ボタンを留めることができた・・・お茶の席にも...あぁできなかったんじゃなかったんだと。
できないとあきらめていた沢山の事、本当はしていないだけなのかもしれない。出来ると信じやってみたらあたらしい自分を発見でき、もっともっと可能性が広がるかもしれない。
他のものにやさしく
南さんの友人は、みんな口を揃えて南さんは優しいという。旅先では「疲れたでしょう、そこに寝転んで」といって足でマッサージをしてくれる。手のあるものが手のないものにマッサージをしてもらうとは・・・いつも周りを気づかう細やかな心配りはただ頭の下がる想いです。 ”他のも”のは人だけでなく自然やもの全ての事に優いという心、そんなやさしい心が南さんの絵にもまたあらわれています。
忙しい日常の中で少し心にゆとりをもって"他のものにやさしく"を心がけることで自分にもまた優しくなれるような気がします。
喜びの種をまこう
この言葉を聞くたびに、なんとなく嬉しい気持ちになります。
心まで障害者になってはいけない
(作品集「ふりかえってみれば・・・」大島氏のエッセイより)
実際の南先生にお会いしてどうだったのか。当たり前といわれるかもしれませんが、ふつうの方だな、というのが正直な感想で、お付き合いすればするほどそう感じるようになりました。「ふつう」といっても凡庸の意味ではなく、両手がない事を他人に感じさせない、そんな雰囲気が先生にはあるのです。これまでの苦労や努力を表に出さず、特別扱いも求めず、できないことはできないと素直におっしゃり、ご自信の弱い部分も隠そうとはされない。「両手がないから」とか「両手があったら」というような話も一切されない。私達と同じ目の高さで話、笑い、一緒に楽しむ先生はいつも自然体のありのままで接してくださいます。
えらくならなくていいから役に立つ人になれ
( 古川宜宏氏より)
南さんは、講演などの依頼があれば体調の許す限り出向く。それは、「少しでも世の中人の役に立てるなら」という気持ちから。 20数年前、この言葉を南さんの講演でいただいた時、すっーと心に入ってきた。 誰かに比べて偉くなる事に一生懸命になるよりも、ちいさな事でも誰かのお役に立てて喜んでもらえたり、心が通じたりすることが僕にとっては嬉しいし幸せだと想う。